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2022.09.14

Betsu No Jikan

https://ssm.lnk.to/BNJ

2022.8.31 Release
PECF-1193 [CD]
定価:¥2,800円+税

2022.11.30 Release
PEJF-91043 [LP]
定価:¥3,300円+税

01. A Love Supreme
02. Moons
03. Sand
04. If Sea Could Sing
05. Reflections / Entering #3
06. Deep River

「メタ『メタコンポーズ』」の実践と、「テクスチャ―」の解剖 ―「別の時間」の実験によって切り開かれるポップの地平―

現代における「ポップソング」の可能性に真っ向から挑んでみせた傑作『Morning Sun』(2020年)を経て、今岡田拓郎は、その「ポップソング」のあり方を形作っているメタ的な構造それ自体を検分し、ダイナミックに再生させようとしている。2年ぶりの新アルバム『Betsu No Jilkan』は、この間彼が取り組んできたそうした試みの集大成と呼ぶべき、圧倒的な作品だ。そしてまた、『Betsu No Jikan』は、即興演奏を主な下地としていながらも、ごく親しみやすい作品だ。この不思議な親しみやすさを「ポップ」だと言っていいなら、まごうことなき「ポップアルバム」だとも言える。
即興演奏を「主な」下地としていながら、というエクスキューズをつけたのには、これが通常の意味における「即興演奏をそのまま録音した作品」ではないからだ。岡田は、ドラマーの石若駿らとの即興演奏の成果を「素材」として一旦持ち帰り、エディットを施した上、更に様々なミュージシャンに対してその上で即興的な演奏をするよう指示した。ジム・オルーク、ネルス・クライン、サム・ゲンデル、カルロス・ニーニョ、細野晴臣という錚々たる音楽家たちによってリモート収録されたデータを受け取った岡田は、それらを再びエディットし、コラージュし、自身と各人の演奏を混ぜ込んでいった。いわば、演奏とエディットとミックスがそれぞれ不可分に絡み合い、並行的に進行していったのだった。こうした事実に鑑みるなら、これもまた旧来のエディットミュージック/サンプリングミュージックと同様の地平に立ったポストモダン的な「ポップ」の継承であるともいえる。つまり、あらゆる素材が、「引用と編集」の遡上に載せられ、擬似的な同一時間の中に収斂していく、メタ「コンポーズ」の論理というべきものの先鋭例として聴くこともできるだろう。だから、例えばトークトークなどを先駆とする、ポストロック的方法論の発展型とも理解できるし、そのような観点からも非常に魅力的な作品であることは間違いない。

しかし、今作の新奇性はむしろ、そうした方法論を更にもう一度相対化しようとするダイナミズムにこそ宿っていると感じる。たとえば、旧来のポストロック的表現においては、仮に同様の手法で集められ編集された各音が、あくまで同一の時間線上に集約させられる、もっと言えば、あたかも同一の空間において鳴らされているような体験をリスナーに提供していたと理解してみるなら、本作はどうやらそれと少し異なる性格を蔵しているようなのだ。
その微妙だが重大な差異は、各楽器のミックスにおける「非集約性」においてもっとも鮮やかに顕現している。非常に精密なエンジニアリングによって、各音はこれ以上無いほどつややかにトリートメントされているのだが、他の各音と併置されたとき、各々の音の持つ個別の特徴と、本来そこに流れていたはずの個別の時間性がかえって鋭く立ち上がってくるふうなのだ。つまり、なにがしかの地図を予め想定し、その稜線にあうように各音がはめ込まれ整えられているといった様態ではなく、あくまで各音が各音として別様に存在し、音の凹凸がそのままの形で多様な時間軸上に散切りにあらわれてくるような印象をいだかせるのだ(繰り返すが、各音極めて精密な処理がほどこされており、語義通りの意味で「そのまま」ではないことに留意されたい)。つまり、メタ「コンポーズ」の論理によって下支えされているようにみえながら、その実、各音の独自性/独立性を活かし切る方向で、時には各音のアンコントローラブルな放埒(そもそも、それを期待したがために岡田はこれほどまでに個性的かつ多様な奏者に参加を仰いだのだろう)すらもそのまま(に一見すると聞こえる)形で再配置していくという、「メタ『メタコンポーズ』」とでもいうべき方法論をとっているのである。音楽ファン向けに例えるなら、マイルス・デイヴィスのグループによる集団即興演奏が、テオ・マセロによって各音の肌触り(とその差異)を活かしながら巧みに最構築された偉大なる成功例を受け継いでいるようだ、と表現してみてもいいだろう(本作が、ジョン・コルトレーン「至上の愛」のテオ・マセロ的解釈のカヴァーによって幕開けするというのも、この文脈に置いてみるときわめて示唆に富んでいる)。
そしてまた、このことにより得られる絶大な効果とは何か。それはつまり、同一の時間への収斂を執拗に避け、「別の時間」のありようを肯定し様々な「別の時間」へと開いていく、コミュニケーションレベルから立ち上がってくる、オルタナティブな開放感=「ポップ」さのようなものだろう。ここでは、「コンポーズ」の論理が宿命的に内蔵している専制性のようなものが周到に避けられ、代わりにきわめてデモクラティック(かつ流動的な)なコミュニケーション様態が浮かび上がってくるのだ。本作における岡田は、「メタ『メタコンポーザー』として巧みに各音を采配しているのに加え、そのようなコミュニケーションを方向づけるファシリテーターとして自ら率先して作品内を自由に泳いでいるようでもある。

ところで岡田拓郎は、バンド<森は生きている>でデビューした当時から、様々な音楽遺産の「意匠」を深く消化し、それらを巧みな手付きで自らの音楽へと援用する術に長けていた。というよりも、ある意味では長けすぎていた、とすら言える。その感度の高さによって、「〇〇(任意のジャンル名/アーティスト名)風の音楽」を驚くべき消化力と技術によって成し遂げてきた彼だが、一方では、直截に「〇〇風」とみなす批評なり聞き手からの評価に対して苦々しい思いを語ってくれたこともあった。おそらく岡田は、なにがしかの音楽がなにがしかの音楽に「似ている」「参照している」「影響を受けている」と受容されるときにどうしても陥りがちな、その内閉的コミュニケーション様態や自己言及性ゆえの、「音楽そのものの矮小化」というべき事態に(自らが数多の音楽に耽溺してきた経験をもつがゆえ余計敏感に)、作家として由々しきものを感じてきたのだろう。
そして本作は、そうした「音楽そのものの矮小化」に抗する闘争としても聴くことができるように思う。本作を一聴して感じるのは、ここにある音楽を直截に「〇〇風」として括ってみることの困難さだ。これは当然、上で見てきたように各曲が即興演奏に基づいているという理由も小さくないだろう(その反射として、「フリージャズ風」と言ってみることも不可能ではなさそうだ)。しかし、このカテゴライズ拒絶の力学のようなものは、どうやらそれだけが理由ではない。
むしろ岡田は、各トラックを通じて、「〇〇風」という心証が発生してくる構造の成り立ち自体に目を向けようと/させようとしているのではないか。例えば、唯一のヴォーカル入り曲である「Moons」では、(岡田が師と仰ぐライ・クーダーを彷彿させる)アーシーで野太いギターサウンドとそのフレーズからして、「アメリカーナ風」と表現するのも可能だろう。しかし、ここで立ち上がってくる「アメリカーナ風」は、「アメリカーナ風」という一種の「テクスチャ―」として大づかみされた既定的なジャンル概念によるものではなく、そもそもその心証を成り立たせる要素とはいったい何なのかという問題意識に牽引されているものなのではないか。ギター以外の音、立ち表れては消えていく音たちも、総体としての〇〇風に奉仕するのではなく、あくまでその〇〇風を成り立たせる特定のフレーズなりリズムをお互いに再照射し、その縁取りの任意性そのものへと微視的に迫っていくような役割を負っていると考えてみたい。奏でられている音が具体的にどんな心証へと奉仕していくのかを、各音自体がお互いにじっくりと検分している……そういう場面に立ち会っているがごとき、特異な緊張感がみなぎっているのだ。それゆえに、特定のジャンルを自明的に志向し、その指向性の枠内に収斂せざるを得ない音楽、いわば「ジャンルミュージック」とでもいうべきものが往々にして陥りがちなある種の矮小性から距離を取るのに成功しているのだと思われる。
こうした論理は、「Moons」に限らずアルバム全体に通底しているものだと感じられるが、もう一つのわかりやすい例として、終曲の「Deep River」を挙げることができる。ここで(主にアルトサックスの演奏で)用いられている音階は、いわゆる「東洋風」のスケールである。岡田はここで、エキゾチックとかオリエンタルといった形容詞とともに受容されてきたこうした音階を、単にそういう「東洋風」の心証を聞き手に喚起させてトロピカルな気分に浸らせてやろうという意図を持って用いているのではないはずだ。むしろ、これも上の例と同じく、そもそもトロピカルな気分を浮かび上がらせる要素とはなんなのかを、骨組みのあり方から再検分し、「テクスチャ―としてのトロピカル」の茫漠とした概念化を今一度精緻に分解しようと試みている(そしてそういう試みに我々聞き手を誘い出そうとしている)のだとみたほうがいい。是非試してほしいのだが、仮にアルトサックスの演奏がミュートされた状態を想像してみると、これぞエキゾチック、というべき要素は第一印象よりも相当希薄であるように感じられる。けれど、楽曲がアンサンブルとして立ち上がってくるとき、確かにエキゾチシズムの薫りが濃密に立ち込めてくる。何がしかの心証が立ち上ってくる際に起きている音と音の相関的な作用の様に、改めて耳を啓かせてくれるのだ。昨今いささか氾濫気味に使用される「テクスチャ―」という概念の背後に潜む構造なり要素を、その根源から探っていこうとする真摯な態度も、本作を類稀な存在にしているのだろう。

「別の時間」と「別の空間」を招き入れ、その多様な有り様を多重録音芸術の論理の中へ逆転的に息づかせようとする「メタ『メタコンポーズ』」の論理。さらには、「〇〇風」の解体と再吟味。「ポップとは何か」を考え抜こうとする岡田の野心的な批評精神と音楽家としての強靭な身体性は、ついにこのような境地までたどり着いた。本作『Betsu No Jikan』は、当代随一のポップエクスペリメンタリストである岡田拓郎が静かに提示する、尊く力強い問題提起だ。

2022年6月 音楽ディレクター/評論家 柴崎祐二